外に出たい気持ちとどう折り合うか
新型コロナウイルスが猛威を振るっている。
私は週に一度か二度だけ出勤し、そのほかの勤務日は在宅勤務をすることになった。在宅勤務の日に家の外に出る機会といえば、食料品や当座で必要になった日用品を買いに行くくらいである。
そんな生活をしてみて思ったことは、「多くの人にとって『家から出るな』というのは難しいことなのだ」ということだった。
スーパーマーケットの混雑が話題になっている。私の家の近くにあるスーパーも御多分に漏れず人が多い。特に休日は、普段の休日と比べても多いような気がするくらいだ。家族連れもいるし、お年寄りもいる。人の動きを眺めていると、保存がきく食品をまとめ買いしているという感じはしない。そういう買い物をする人もいるが、多くの人は普段通りの買い物をしているように見えた。
ある日、半日だけ出勤することになって、昼過ぎのオフィス街を歩いていると、妙に人が多いと感じた。私の会社も近くの会社も、出勤する人は相当減らされているはずなのだが、その割に人が多い。多くの人がめいめいに昼食をとりに、あるいは弁当を買いに外に出ている。
普段であれば弁当を持ってくる、あるいは社員食堂やビル併設のコンビニで済ませる人のうちかなりの割合の人が、今日のお昼は外に出ている。そんな気がした。少なくとも私の会社と隣の会社の食堂やコンビニは開いていたにもかかわらず、だ。
ネットを見てもテレビを見ても、ずっと「不要不急の外出は自粛して」と呼びかけている。
「多くの人が外出している、日本人は不真面目だ」と言う人もいる。私はそうではないと思う。日本人はやっぱり真面目だ。「不要不急の外出」は自粛して、「不要不急」ではない外出は続けている。スーパーに食料品を買いに行くことも、仕事の合間に昼食をとりに行くことも、「不要不急」と考える人は少ないだろう。人間は食事をしなければ生きていけない。肉体的にも精神的にも、食事をしなければ苦しくなる。
もう少しシニカルな見方をすれば、「言い訳ができる」外出をしている、とも言える。食事をしなければ生きていけないのだから食料品を買いに行くのは構わないだろう。一人でランチに行くのは構わないだろう。気がつけば自分自身にそう言い聞かせている人は多いのではないかと思う。私も、その一人だ。
きっと、私も含め多くの人は、まったく外出しない生活はなかなかできない。
それぞれの人に、耐えうる最低限の外出の頻度というものがあって、普段はそれ以上の頻度で外出をする。スーパーでの買い物や、満員電車での通勤や、好きなアーティストのコンサートや、10連休を丸々使った旅行や、隣町の日帰り温泉施設での入浴。その中には「不要不急」とされるものも多い。一人一人の精神的安定を支えているのは「不要不急」だし、サービス業の比重が高い日本経済を回しているのは「不要不急」だ。
こんな状況だからしょうがないね、と言える人は立派だと思う。だが、「不要不急」を我慢できる立派な人たちでも、外出そのものを我慢することには、また別な困難が伴うのではないか。だから、数少ない「不要不急」ではないとみなされる外出先に、多くの人たちが集中するのではないか。
東京都がスーパーでの買い物は3日に1回にするよう要請するらしい。ある程度の食べ物はあるから不可能ではないが、さすがに従えないのではないかと思う自分がいる。もし本当に要請が出たら、毎日、あるいは2日に1回の割合でスーパーで買い物をしてきた(私を含め)多くの人たちは一体どうするのだろうか。
要請を無視することには心理的負担を伴う。心理的負担の軽い外出先といえば公園をはじめとする屋外の開放的な場所だろうが、最近では公園で遊んでいる親子連れを見つけると市役所に通報する人まで現れているらしい。そこまではいかないまでも、人口が密集する大都市圏でみんなが同じように考えれば、いかに開放的な場所といえども人が密集してしまう。そう、先週末の湘南のように。
(私を含め)外出自体をさらに減らすのが難しい人たちは、これから外出先としてどこを選ぶのだろう。
最善手は外出自体を減らすことであることは間違いないとしても、おそらく「どうしても外出したいなら比較的マシなのはここ」という場所は存在するのだろうと思う。ただ、立場のある人がオフィシャルに発言することは難しいし、多くの人がそう思えば結果が変わってしまうかもしれない。役所も政治家も専門家も、「外出自体を減らしてください」と言い続けるしかない。
外出をゼロにするか普段通りにするか。答えは2択ではなく、その間のグラデーションの中でどのあたりを選び、行先としてどこを選ぶかの問題だ。
残念ながら、こうしたらいい、という明快な答えは出せない。極端な話、5月6日まで毎日家から出ずに食事は三食カップラーメンというわけにもいかない。ただ、しばらくの間、ゼロと普段通りの間で、うまく折り合いをつけて生活していくほかなさそうだ。
刑務所とともにある町で見た「もうひとつの北海道開拓史」
今年の秋、刑務所に入るために北海道に行ってきた。
とはいっても、罪を犯して刑を科されたわけではない。かつて刑務所であった建物を利用した博物館を訪れたのだった。
明治時代、政府が北海道に刑務所に相当する施設を建てて囚人を収容し、北海道開拓を進めるべく道路建設などの過酷な労働を課したことは知る人ぞ知る歴史の一面だが、当時建てられた監獄建築が北海道にはいくつか残っている。網走市にある博物館網走監獄はその一つで、道東地方の代表的な観光スポットの一つになっている。煉瓦造りの重厚な門や、五つの建物が接続され見張り所が設けられた独特の形の舎房(重要文化財である)は特に有名だ。
今回訪れたのは、それとは別で、月形町にある月形樺戸博物館だ。ぜひ多くの人に訪れてほしいと思わせる施設であった。その魅力をご紹介したい。
月形樺戸博物館とその見どころ
月形樺戸博物館とは
1881年(明治14年)から1919年(大正8年)までの間、この場所に樺戸集治監という施設があった。集治監とは、重い罪を犯した者や政治犯を収容し、北海道開拓に従事させるために明治政府が設置した施設である。後で述べる通り、現代の刑務所とは性質が異なる部分があるが、現代の言葉でいえば特殊な刑務所といえる。
月形樺戸博物館は、この樺戸集治監の歴史に関する資料を展示する施設である。新旧2つの建物で構成されており、そのうち一つは実際に使われていた庁舎である。残念ながら囚人たちが生活していた建物は残っておらず、実際に入ることができるのは刑務所の運営のために使われていた庁舎の建物だ。
庁舎の建築と工夫
庁舎の建物。この建物は1886年に焼失した後に建て替えられたものである。刑務所の廃止後は1972年まで村役場・町役場として使われた。現在は博物館として集治監の概要に関する資料や当時の公文書などを展示している。北海道の厳しい気象条件の中で130年以上使われてきた木造の庁舎建築として貴重なものであり、さらに、刑務所の建物ならではの工夫を見ることができる。
正面から見ると左右対称に見える建物の左側に、少し張り出した部分がある。この部分はトイレであり、正面左側の典獄(所長)執務室につながっている。現代の庁舎建築でも、偉い人の個室の隣には専用の会議室や水回りなどの設備が備わっていることが多い。しかし、ここにはそれらとは性質の異なる、刑務所ならではの意味がある。
この部分を外から見る。正面側からはこんな感じ。
一方、裏手側から見る。
何やら切れ目があり、蝶番のようなものがついている。
そう、ここは非常用の脱出口だったのだ。囚人の暴動などの非常事態が生じた際、こっそりと脱出するためにつくられていた。
博物館本館の充実した展示
庁舎の裏手に2階建ての博物館本館がある。この建物は当時の建物ではない。
ここでは、1階で歴代の典獄や看守たちの仕事、集治監と地域との関係、2階で囚人に課せられた厳しい労働といった内容の資料が展示されている。展示は大変充実しており、内容はさまざまであるが、たとえば次のような内容がある。
① 典獄の仕事
典獄は初代の月形潔(のちに村の名前になった)から8代までおり、それぞれが自らの信ずるところによって集治監の運営に当たったようである。たとえば3代の大井上輝前はアメリカ留学の経験を持つクリスチャンであり、囚人に野球を奨励したり、小学校にオルガンを贈ったりしたという。また、8代の関省策は小学校に図書室を設けさせたという。
② 看守という仕事
集治監には職員が370人ほどおり(1885年の状況)、その6割ほどが看守であった。看守たちには勤務中の銃器の携帯が許されており、危険と隣り合わせの仕事であったことがわかる。1909年には道路を歩いていた非番の看守が脱走した囚人2名と遭遇し、捕まえようとして惨殺される事件も生じた(花山看守惨殺事件)。彼らもまた厳しい規律を守り、決して高くない給料で日々の厳しい仕事を遂行していたという。
③ 囚人の厳しい労働
当初は集治監周辺での農業や味噌・醤油の製造などに従事していた囚人たちは、政府によって北海道開拓のための道路建設の計画が立てられると、安価な労働力として使いつぶされるようになった。当時の政府の考え方は、「囚人に懲罰として過酷な労働をさせれば工事の費用が安く上がり、囚人が死ねば監獄の費用が安く上がるので結構なことである」というものだった。
囚人が築いた月形の町、そして北海道開拓の基盤
囚人が築いた北海道開拓の基盤
1886年に北海道庁長官から道路建設の命令が下り、樺戸集治監の囚人たちは、現在の三笠市から旭川市への上川道路(現在の国道12号線)の開削に従事することとなった。1889年に完成した後は、旭川から網走への網走道路の開削にも従事した。
いずれの工事も人力に頼る重労働であったうえ、食事や衛生状態は十分でなく、害虫や獣にも苦しめられ、極めて過酷なものになった。怪我や病気によって多くの囚人が亡くなった。
こうした過酷な労働によって道路が開かれたことで、上川地方や道東方面の開拓が始まった。北海道の開拓は囚人の過酷な労働によって進んだのであった。展示パネルの以下の一節は、読む者に強く訴えかけるものがあった。
ここに来たら二度と帰れないと
恐れられた北の監獄。開拓を先駆ける基幹工事を行ったのは
ここから逃れられない境遇の囚人たち。
極寒の原始林を拓く工事は
罪を犯した者に課せられたとはいえ
あまりに過酷で非人道的であった。
囚人たちは多くの犠牲を払って
この難工事を完遂した。一直線の道路を通り過ぎるとき
一面の田畑を眺めるとき
囚人たちにも思いを馳せてほしい。
あまり知られていない
だからこそ伝えたい
もうひとつの北海道開拓史がここにある。
囚人たちが築いた月形の町
この場所に集治監があったのは30年足らずの間であった。囚人と職員たちは、この町にたくさんの足跡を残していった。
集治監が開かれたとき、赤い服を着せられた囚人と職員は、まず周辺の開墾にとりかかった。囚人たちは水道や灌漑の工事にも従事し、村の生活や産業に必要なインフラを整備した。また、本州からやってきた看守の中には退官後も村に残った人がいた。彼らは集治監での経験を活かして農業やまちづくりに大きく貢献した。
月形の町には、今も形を変えて刑務所が存在している。
時代は大きく下って1983年、月形刑務所が設置された。東京・中野の刑務所が閉鎖される際、一般的には敬遠される刑務所を、月形の町では積極的に誘致したのだという。
現代の刑務所では、囚人が過酷な道路工事に動員されるようなことはない。月形刑務所では、広大な敷地を生かした農作業や、木材資源を生かした家具の生産など、この地域の資源を生かした刑務作業が刑の一環として行われている。
また、非行をした少年を教育する少年院である月形学園も所在する(こちらは1973年設置)。
樺戸集治監とともに生まれ、初代典獄の名を村の名とした月形の町。
博物館のシアターで流れている、月形の町の成り立ちに関する映像はこう締めくくられていた。
月形は、朝日や夕日と同じ赤い服を着た人たちが築いた。
赤い服を着た囚人たちが築いた町は、今も罪を犯した人の矯正の場とともに生き続けている。
◆
現地情報
施設の基本情報
施設の名称:月形樺戸博物館
所在地:北海道樺戸郡月形町1219番地
ウェブページ:http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/5516.htm
開館日:4月から11月のみ開館。12月から3月までは閉館。開館期間中無休。
開館時間:9時30分から17時まで(入館16時30分まで)
公共交通機関でのアクセス
(鉄道)JR石狩当別駅から徒歩6分(500m)。札幌駅から約80分、一日7~8便。2020年5月7日廃止・バス転換予定。
(路線バス)北海道中央バス月形役場停留所すぐ。岩見沢ターミナル(JR岩見沢駅すぐ)から約40分、一日8~9便。
バスの時刻はhttps://www.chuo-bus.co.jp/city_route/course/iwamizawa/で。ヤフー乗換案内アプリ対応。
周辺の観光施設など
月形温泉ホテル(博物館から約1.2km、徒歩約15分)
町営の温泉・宿泊施設。宿泊施設の内湯というよりは、地方によくある公営の温浴施設と同様に、地元の人が気軽に入りに来る施設という色が強いようだ。10時から22時(11月~3月は21時)まで入浴できる。博物館の半券提示で割引あり。
https://tsukigataonsen-hotel.com/hotspring.html
あの子の翼、あの子の世界 『響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』感想
『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』を観た。
個人的に見所だと思ったところがいくつかあったので、それぞれポイントと感想を書き残しておきたい。
※以下、ネタバレを含みます。鑑賞後にご覧ください。
目次
みぞれが「翼」を見せたとき
今作では、シリーズのスピンオフ作品として昨年公開された映画『リズと青い鳥』の作中で起きた出来事については、基本的に言及されていない。
『リズと青い鳥』を思い起こさせるシーンと言えば、あがた祭の夜に麗奈が弱音を吐くシーン(後述)と、奏が夏紀との会話の中で「ハッピーアイスクリーム」と叫ぶシーンくらいだろうか。
その中でも、コンクール本番のシーンでは、オーボエとフルートのソロを担当する鎧塚みぞれと傘木希美の演奏が描かれる。とりわけ、みぞれは迷いを振り切ったような表情で堂々と質感のある演奏をする。
「はばたけ!」と書かれた譜面を前に、「来なくていい」と呟いていた本番で、凛とした表情の希美とともに演奏するみぞれは、あのシーンで自身が持つ「翼」をしっかりと見せていたように思う。よかった。
「弱気なリズ」としての麗奈
あがた祭の夜、久美子は塚本と二人で祭りを楽しみ、麗奈は「山」の上でトランペットを吹きながら久美子を待つ。ようやくやってきた久美子とリンゴ飴を食べながら言葉を交わし、将来のことを語りつつ「いつか一緒にいられなくなるかもしれない」と漏らす。
この「一緒にいられなくなるかもしれない」相手が誰なのかは明かされていない。麗奈がそんな弱音を吐く対象は限られており、おそらく久美子か滝のどちらかだろう。滝については、卒業すれば「一緒にいられなくなる」のが目に見えていること、そもそも現状が「一緒にいる」とは言い難いことから、おそらく久美子のことを言っているのではないかと思われる。
『リズと青い鳥』では、久美子と麗奈が第三楽章のオーボエとフルートの掛け合い部分を演奏する場面がある。それを聴いた夏紀は「なんか、強気なリズ、って感じ」と、優子は「高坂らしい」と評する。
だが、この場面では、麗奈は「弱気なリズ」そのものである。久美子が近くにいなくなることを恐れる様子は、『リズと青い鳥』の前半で描かれたみぞれのようであり、希美のようである。
久美子と麗奈の関係はみぞれと希美の関係とは随分違うようにも思うが、麗奈もまた、いつか別れをもたらすかもしれない自分たちの将来という問題にぶつかることになるのだろうか。
久美子が奏の隣に座ったことの意味
コンクールの結果が発表された後、部員一同はバスに乗って学校へ戻る。久美子は奏の隣に座って*1、二人で会話を交わす。「悔しい?」と聞かれた奏は「悔しくて死にそうです」と返す。
このシーンは、原作中にも登場する久美子と麗奈、そして希美とみぞれの中学時代のやりとりを下敷きにして描かれている。久美子の前で麗奈が泣くシーンについては、本番直前に回想として描かれたほどである。
コンクールの結果を前にした気持ちをそのまま見せるシーンがあるのは、それだけの関係性があることを示す。奏が久美子を認め、心を開いていることが描かれているといえる。
翌年度以降、奏は誰と隣の席に座り、結果を分かち合うのだろうか。今作の前半で描かれた美玲との出来事(後述)を見ると、もしかすると美玲なのではないか、と思う。
久石奏の世界とその外の世界
個人的に、この作品を通して最も目を引かれた登場人物は久石奏だった。
作中で、彼女の行動原則は「失敗して傷つきたくない」なのだと示唆される。だが、それだけではない。彼女はずっと、失敗を避けようと思いながらも、自分を認めてほしいという気持ち、自分が認めることができる人とつながっていたいという気持ちに突き動かされるように行動しているように思われる。
奏は、失敗して傷つきたくないから、展開を読んで先回りしようとするし、先輩にはやたらと礼儀正しいし、練習もきっちりやる。他人が関わらない限り、彼女の世界では失敗はきちんと回避される。
そんな奏にとって転機になったのがコンクールの直後に起きた「事件」だったことは、多くの人が同意するところだと思う。
彼女の世界の中では、コンクールのメンバーを先輩に譲ることで、中学時代と同じ失敗を回避できたはずなのだが、それは夏紀と久美子に覆されてしまった。夏紀は「異変」に気付いて躊躇なく音楽室に入り込み、副部長権限とまで言って奏を連れ出すし、久美子は逃げ出した奏を「自分に行かせてほしい」と追いかける。奏が自分の世界と外の世界の間に引いていた一線を、その上に築いていた壁を、雨の中で二人が壊してしまった。
あの雨の日の出来事がなければ、奏はオーディションで本気で演奏することはなく、コンクールの本番で演奏することもなく、コンクールの結果も他人事として処理されただろう。しかし、この出来事があったから、奏はオーディションでも本番でも本気で演奏することができたし、その結果としてラストシーンで「悔しくて死にそう」だと感じることができた。彼女にとってあの出来事の意味は非常に大きいものがある。
奏と美玲のこれから
奏は登場からずっと「ただ者ではない」雰囲気を出していた。ミーティングでの美玲の質問の意図を(とげのある質問であり、放っておけばいいのに)解説してみせるし、久美子には「先回りしているような」と言わせているし、美玲が退部したいと言い出すのに備えていたかのように久美子に「美玲とさつきのどちらが好きか」を聞いている。入部からそう時間の経たない新入生が、美玲のことを頼まれていたとはいえ、先輩にそんなことをそうそう聞くだろうか。
そして、マーチングの会場で美玲が逃げ出した時には、「自分よりもさつきの方が演奏が下手なのに先輩に可愛がられるのが嫌だ」という美玲の気持ちがよくわかると話している。
「学年にかかわらず、あるいは周囲との人間関係にかかわらず、高い演奏技術を持つ者ほど高く評価されるのだと言っておきながら、本当はそうではないのではないか。だから自分は評価されないし、居場所もない」
この気持ちこそ、奏が中学時代の失敗からくるトラウマとしてずっと抱えてきたものだったのだろう。そして、それと同じ悩みを持ち、その悩みに伴うだけの演奏技術を持つ美玲だから、奏は本心から「その気持ちが分かる」と言えたのではないか。そして、この出来事が、後に雨の中で久美子に本心を語る伏線になり、このあと美玲との関係性を深める伏線になるのではないかと思う。いや、そうであってほしい。
最後に
続編が観たい。おそらく映画またはテレビアニメの形で続編が制作されるのではないかと思う。今作はかなりテンポよく進んでおり、新たな登場人物や新たな関係性、あるいは関係性の変化(久美子と塚本のことですね)を紹介しつつ、次の作品につなげよう、という意図が見えた(と思う)。
「誓いのフィナーレ」というタイトルは、「これで最後」ということを意味しているようにも読み取れるが、「新たな展開へ向けて登場人物がそれぞれ誓いを立てた」とも読み取れる。
また、原作小説もまだ完結しておらず、4月17日(今作の公開2日前)に発売された小説『北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章』*2では、久美子たちが3年生に進級した年が舞台になっている。このタイトルはシリーズ完結編を意味するようにも読み取れるが、そうだとしても、メディアミックスの「種」は少なくともそこまでは存在することになる。是非とも続編を観たい。
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成長に必死とは評価されなさそうな若者から見た「成長に必死な若者」たち
3本のブログ記事を読んだ。
odmishien-zakki.hatenablog.com
「ああ、そうだよなあ」と思いながら読み進めて、概ねの納得と、少しの共感と、また少しの違和感を抱いた。
「成長に必死な若者」とは評価されなさそうな若者として、我が身と周囲を眺めつつ思ったことを書いてみたい。
所属する組織の「成長圧」が「成長へのスタンス」を規定する
世の中には色々な仕事があり、色々な組織があるらしい。
就職してから出会った人はともかく、学生時代の友人たちは、色々な仕事や組織に散らばっている。
日本経済を牽引する大企業の本社で働く人もいるし、工場で働く人もいるし、地元のお店で働く人もいるし、教員もいるし、保育士もいる。役所で働く人もいるし、代々続く家族経営の会社で働く人もいる。
彼ら彼女らを見ていると、「成長」に必死な度合いは全然違うように見える。セミナーや交流会に出まくってそのことをSNSで発信したり、インフルエンサーと呼ばれるような人とリプライを交わしていたりする人もいる。仕事に関係する本をたくさん読んでいる人もいる。資格試験や検定試験に向けて必死で勉強している人もいる。長時間労働の中で必死で食らいつくように仕事をして、少しでも仕事を覚えてできることを増やそうとしている人もいる。反面、そういうことをほとんど感じさせない人もいる。
これは個人差による部分もあるのだろうが、失礼ながら学生の頃はそんなに真面目ではなかったよねという人も必死で「成長」を追いかけていたりして、組織が人を変えている部分も大きいのではないかと思う。言い換えれば、組織によって異なる成長圧が、「成長」へのスタンスを規定しているのではないかと思う。
「成長に必死なスタイル」をとらないことを可能にするもの
我が身を振り返れば、私はそんなに成長に必死な部類ではない。というか、かなりのんびりしている部類だろうと思う。
読む本は仕事と関係のないものばかりだし、日々のニュースは追いかけているが、それは趣味の一つである選挙予測に役立てるためである。あえて何か挙げるとすれば、会社で回ってくる専門誌を眺めたり、年に数回思い出したかのように同業他社との勉強会に出たりするくらいだ。とてもじゃないが「私は努力しています」と胸を張って言える水準ではない。
そのうえ、私は基本的に「努力は人に見せつけるものではない」という価値観を信じていて、雑談でもSNSでもその手の話はしない。利用するSNSはTwitterだけで、専ら日々のたわいもない出来事や趣味の話をするために使っている。趣味の世界の偉大な先人はフォローさせていただいているが、いわゆるインフルエンサーはフォローしていない。Facebookはやらない。意識して「意識高い系」のコンテンツを遠ざけている節がある。
これは私の怠惰な性格によるものなのだが、それが(少なくとも表立っては)特に問題にされず、こういうスタンスを取り続けられるのは何故だろう、と思う。
組織が成長へのスタンスを規定するという視点で言えば、私が所属する組織は、成長圧はそれほど高くない部類だと評価されそうだ。比較的ゆったりとした風土がある。これは重要な理由の一つだろう。
それでも「成長しようとする姿」を見せるべき時もある
ただ、かくも怠惰な私も、時と場合によっては「成長しようという意識がある」という意思表示をしなければならない。給料や評価はある程度成果主義で決まるが、評価項目の一つには自己啓発への取り組みが必ず入っている。上司から「君、自己啓発のために何やってるの」と聞かれたら、「同業他社との勉強会に定期的に出席したり、専門誌や日経新聞の記事を読んで社会や経済や同業他社の動きを分析したりしています」と答えなければならない。毎年提出する調書にもそう書かなければならない。まあ、嘘ではない。動機や熱心さはともかく、していることは事実である。他の人と比べれば「しょぼいなこいつ」と思われるのかもしれないが、少なくともそれをはっきり言われることはない(今のところは)。
今後、成果主義はさらに広がるだろうし、自己啓発圧は高まることこそあれ低下することはなさそうだ。こういう「見せ方」が求められる場面は増えていくのだろうし、見せる内容もさらに高度なものが求められるようになるかもしれない。いかに怠惰な私としても、職を失うのは嫌なので、そうなれば今のスタンスを維持することは困難になりそうだ。
シロクマ先生は
いまどきの成長志向の何割かは制度や慣習によってつくられた産物
と書かれたけれども、大学入試や就職活動、転職活動などを含めて、制度や慣習はこれからさらに成長志向を強めていくことになりそうだ。
世の中が求める「成長に必死な若者」
日経新聞を読んでいると、事あるごとに「このままでは世の中の仕事の多くは機械に代替される。労働者はスキルアップに努めなければならない。労働者のスキルアップと労働流動性の向上が日本が生き残るために必須だ」という論調の記事に遭遇する。おそらく、これが企業の経営者や管理職の多くが共有する考え方なのだろう。
周囲の「成長に必死な人たち」を見ていても、ある人は日進月歩のAI技術で自社の優位性が失われるという危機感を語り、ある人は出産後は離職して子育てに専念したいので復職に有利な資格が必要だと言い、またある人は人手不足で求められる仕事の幅が拡大しているのでついていくのに大変だと言う。どれも世の中全体の特徴を反映したことであるように見える。
もちろん、いわゆる内発的動機づけで動いている人もいる。世の中がどうあろうと、目の前の仕事にやりがいを見出し、あるべき社会の姿や実現させたい夢に向かって成長を図るのだという人は必ずいるし、それは尊いことだと思う。そういう人は輝いて見える。
ただ、
の記事で取り上げられていたように、今の世の中は、「普通の人」が「普通の人であり続けながら」働き、一定の収入を得られるというあり方ではなくなってきている。この流れが変わらない限り、「成長に必死な若者」は増え続け、また、年齢層を広げていくのではないかと思う。
「他人のことばかりあれこれ言わずにお前自身が成長しろよ」という声が自分自身の中から聞こえてきた気がするが、それが己のあまりの怠惰さにしびれを切らせたためなのか、他人の「成長物語」を見聞きして焦ったためなのかは、よくわからない。
米田茶店の思い出 「おばちゃんのお弁当」がある駅で
兵庫県新温泉町のJR浜坂駅前にある米田茶店がお弁当の販売を終了し、来夏に閉店することを知った。
駅を出て左手すぐに立地し、弁当やおでん、カレーなどの手作り総菜を販売しているほか、飲み物や菓子類、地元の水産加工品なども棚に並び、駅弁も売られていて、観光客が欲しいものが何でも揃うお店だ。馴染みがない方に想像していただくとすれば、店内調理の弁当で知られる北海道のローカルコンビニ、セイコーマートが近いかもしれない。コンビニと個人商店の良い面を併せ持ったお店だ。
浜坂駅は長大なJR山陰本線の途中駅だが、兵庫県日本海側の西端部に位置し、鳥取県との県境に近いこともあって、多くの列車がここを終点とする。乗り換えの時間はだいたい10分程度あって、直通の列車も同じくらいの時間は停車することが多い。そのため、旅の合間にちょっと降りて買い物をするにはちょうどよい駅だ。
また、ローカル線っぽさのある山陰本線ではあるものの、このあたりでは本数も比較的多く、概ね1時間から2時間程度の間隔で列車があるので、乗り換えを1本遅らせて食事や散歩を楽しむにもちょうどよい。浜坂は人口1万人程度の小さな町だが、漁港があり(ホタルイカの水揚げは日本一で、浜坂のホタルイカは関西の春の味覚の一つである)、温泉もある。かつて針の生産で栄えた町で、落ち着いた街並みが今も残っている。さらには、同じ新温泉町にある湯村温泉への玄関口でもあり、路線バスが駅前から運行されている。
そういうわけで、浜坂駅は通りがかるチャンスがそれなりにある駅で、また、米田茶店は浜坂駅を通りがかったら立ち寄りやすいお店だ。
私が立ち寄ったのは今までに3回で、2015年の冬に初めて立ち寄って手作りのお弁当を購入して以来、浜坂を通る時は必ず立ち寄ってきた。
2015年の冬、最初に購入したのがこのお弁当だった。「米田の母ちゃんのはりきり弁当」と紹介されていて、夕方だったこともあり残り1個だったので急いで購入した覚えがある。豪華な品ではないが品数が多く、優しい味わいと作りのお弁当だった。前日の夕食が城崎温泉の旅館で出てきた豪華なものだったこともあって、家庭料理風の優しさが良かった。
次に浜坂を通りがかったのは翌2016年の秋だった。このときは鳥取駅から城崎温泉駅までの直通列車に乗っていたが、浜坂駅で15分ほど停車する列車だった。昨年のお弁当の印象が残っていたので、改札を出てお弁当を買いに行った。
そのとき購入したのが、この駅弁ととち餅、それに鳥取県の県紙・日本海新聞の朝刊だった。とち餅は地元の和菓子屋さんのもので、よく大手メーカーの和菓子が置かれているコンビニとは違い、地元のものが置いてあるのはいいなあと思った。
3度目に浜坂を通りがかったのは今年の2月のことだった。このときは浜坂の町で昼食をとる行程を組んでいた。この日はおそらくこの年で一番の雪で、車窓は雪景色、浜坂の町では除雪車が走っていた。降り続く雪の中を歩いて昼食のお店に行き、駅前に戻ってきて、お店の中の暖かさにほっとしたのを覚えている。写真を撮らなかったが、記憶によれば温かい飲み物とお菓子を買ったはずだ。
神戸新聞の記事によれば、駅弁は1月6日まで、その他の弁当などは年内いっぱいで終了という。2019年の夏にはお店自体がなくなる。本当に残念だ。浜坂の市街にはコンビニがなく、スーパーはあるが歩いて往復するだけで15分はかかるので、乗り換え待ちや発車待ちで行くにはちょっと厳しい。そして何より、あのお弁当が食べられなくなる。
私は年末から年明けまでの旅行の行程をもう組んでしまっていて、年内や1月6日までにもう一度訪れることは難しい。が、幸い来年2月にまた浜坂を通りがかる予定がある。その時はもうあのお弁当は手に入れられないけれど、ありがとうございました、と伝えてきたいと思う。
すべてはここにつながっていたんだ
アニメ映画「君の膵臓をたべたい」をまた観てきた。
2回目はどんな感想を持つだろう、家に帰ってからどんなシーンや言葉を思い出すだろう、と思っていたのだが、結果的には、頭に残った言葉は1回目と同じだった。
「君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を出会わせた。」
ヒロイン山内桜良は、そういう意味のことを言った。
二人にとってとても重要な場面で、彼女は、二人の一つ一つの選択が重なってその場面をつくりあげたのだと言った。
二人が物心ついてから、その時までの選択が、全てその時につながっていたのだ。
「すべてはここにつながっていたんだ」
そういうことを感じたことがある人は多いと思う。
多くの人にとって、おそらく一度くらいは、そういうことを感じる時がある。
帰り道、ある曲の歌詞を思い出した。SuperflyのStarting Overという曲だ。
この曲は過去を振り返り未来に向かっていくような曲で、その終盤にはこんなフレーズがある。*1
光と影 泣いた空 抱きしめて
全てはここに繋がっていたんだ
この曲は結婚式で使われることが多いという。
劇的な出来事が生じて心を動かされたとき、人は、「あの選択があったからこうなったのだ」「あの出来事があったことも見逃せない」「そういえばあの行動も影響している」と過去を振り返り、「すべてはここにつながっていたんだ」と感じるのだろう。
この物語の主人公は何らかのきっかけで他人と関わらずに生きていくことを選び、ある学校に入学することを選び、休み時間には本を読んで過ごすことを選んだ。そして、あの日病院で文庫本を拾い上げて開くことを選び、桜良と一緒に焼肉に行くことを選び、選択を積み重ねて、あのシーンに至った。
桜良は友人と関わりながら生きていくことを(無意識であれ)選び、ある学校に入学することを選び、ある男子と付き合うことを選び、別れることを選んだ。そして、あの日病院で落とした文庫本を取りに戻ることを選び、図書委員に立候補することを選び、選択を積み重ねて、あのシーンに至った。
もしも、彼女が文庫本に思いを綴ることをしていなければ、彼が病院で本を拾って開かなければ、ホテルマンが手違いをしなければ、彼女がカバンの中身を彼に取ってもらわなければ、元カレが彼に迫らなければ、あのシーンは存在しなかった。
あるいは、私はTwitter上である人をフォローすることを選び、RTで回ってきたあるツイートに星をつけることを選び、そのツイートをした人をフォローすることを選び、その人が勧めていた小説を読むことを選び、その小説をもとにしたアニメ映画を観に行くことを選び、あのシーンを目にすることになった。
一つ一つの選択が、あのシーンにつながっていたのだ。
この物語の主人公は、劇中でこう語る。
「『君」と出会うために、僕は選択して生きてきた」
そして、それまで家族以外の人と関わろうとせず、すべてを自分の想像の中で完結させてきた彼が、初めて積極的に人と友達になろうとすることを選んだところで、エンドロールが流れる。
エンドロールが終わると、その相手もまた彼と友達になることを選択し、二人が桜良と彼女の母親の願いを叶えることを選択したことが示されて、物語が終わる。
Starting Overという曲には、もう一つ印象的なフレーズがある。*2
今 Starting Over 走り出せ
小さな愛が響き合う瞬間へ
人と関わろうとせず、「小さな愛が響き合う瞬間」から縁遠かったであろう彼は、きっとこれから、そんな瞬間を幾度も経験することになるのだろう。
そしていつか、桜良の言葉を思い出して、彼もこう感じることになるのだろう。
「すべてはここにつながっていたんだ」
アニメ映画の入場者特典として、彼のその後を描いた書き下ろしブックレットが配布されていた。
そこでは、きっと何度も「小さな愛が響き合う瞬間」を経験したであろう、数十年後の主人公の姿が描かれていた。そして、その小さな物語の終わりは、読者に「すべてはここにつながっていたんだ」と思わせるものになっていた。
原作でもアニメ映画でも、物語はほぼ同じシーンで終わる。そこからの彼の人生は、読者の想像の中にある。彼の人生は、桜良の死後も、きっと彼女を抜きにしては語れない。二人の出会いは、二人がともにした時間は、彼の思う「ここ」に、いつもつながっている。桜良の存在は、彼の「ここ」に、読者の「ここ」に、光と影を落としながら、きっとこれからもつながっていくのだと思う。