三本目の裏通り

見たもの、考えたことの覚え書き

サークルクラッシャーという名の救世主

ぼくは名前も知れない劣等感に取りつかれている。
決して悲惨な家庭環境を経験したわけでも、いじめに遭ったわけでも、恋人に裏切られたわけでも、あるいは失業したわけでもない。ただ漠然と、劣等感や生きづらさを感じずにいられない。
モテない。世の中の多数派についていけない。発達課題をいつまでもクリアできずにいる。自分はダメな人間だ。このままでは社会で生きていけないのではないか。ぼくはずっと、そう思って生きている。
そしてずっと、「そんなことないよ、キミは立派で魅力的な人間だよ」と言ってくれる誰かを探して生きている。

こういう「生きづらさ」を忘れる方法はいくつかある。

 


ひとつは勉強だ。少なくとも高校までの間は、勉強を頑張って成績が上がれば誰かが評価してくれる。「優等生」でいることが自分の地位をある程度保障してくれるし、大学進学を目指すならば受験ゲームに没頭することができる。大学進学を目指す若者は学力によって階層化される。勉強に打ち込めば、その中で上昇することができる。何事においても、階層上昇は蜜の味だ。

それから、何らかの集団に入る方法がある。部活、サークル、アルバイト、あるいは宗教、政治団体。その集団の中で価値があるとみなされる活動に打ち込めば、その集団の中で他者に認められ、階層上昇を果たすことができる。その集団の中で、短期的にであれ「なくてはならない存在」になることができる。あるいは、集団の中で友人や先輩・後輩などと人間関係を築くこともできる。

そしてもうひとつ。恋愛という方法だ。
恋愛を通して、「キミは立派で魅力的な人間だよ」とお互い認められる関係を築くこと。誰かにとって「なくてはならない存在」になること。これは全ての若者にとって重要な発達課題であり、そしてある種の人々にとって唯一絶対の「救いの道」であるとされる。

生きづらさを忘れるために、このうちどれに頼るかは、人によって時によって違う。それぞれの人に得手不得手があり、また発達段階に応じてなすべきことがある。勉強が得意な人もいればスポーツや芸術が得意な人もいるし、さまざまな活動に打ち込んでもいい時期もあれば勉強に集中すべき時期もある。受験を控えた時期には、それまで部活動に打ち込んできた人も勉強に集中するようになる。

大学生になると、たいてい「勉強」の地位が急落する。就職活動で勉強の成績が重視されないこと、頑張って良い成績を獲得しても褒めてくれる人(担任教師など)がいないことなどが理由だ。「勉強ができる」「優等生である」ことで自分の地位を確保し、受験ゲームで勝者を目指すことで生きづらさを忘れようとしてきた人は、大きな曲がり角にさしかかる。

そこで、多くの人はサークルやアルバイトなどの集団に所属することで「勉強の代わりになるもの」を獲得し、生きづらさを忘れようとする。
しかし、誰もがこの一大プロジェクトに成功するとは限らない。集団で一定の地位を確保するためには、ある程度の”コミュ力”や運、場合によっては一定の技能などが必要だ。それらを持ち合わせていなければ、集団に所属することによって生きづらさを忘れることは難しいばかりか、かえって生きづらさが増幅されてしまい、つらい思いをすることになりかねない。

さて、ここで脚光を浴びることになるのが恋愛である。
勉強や集団への所属によって十分に生きづらさを忘れられない人は、恋愛によって救われようとするか、自分が地位を獲得できる集団ないし活動分野を探しもがき続けるかしかない。
あるいは、幸いにも生きづらさを忘れることができた人も、大学生ならば恋人がいるのが当たり前だという風潮に流されたり、あるいは生活をさらに充実させたいという思いを持って、恋愛市場に流入してくる。
後者の人々はまだいい。問題は前者の人々である。

前者の人々は、それまで自分を支えてきた勉強や集団所属といった方法に裏切られ、生きづらさに直面し、ときにはある種の絶望感を抱えている。「一発逆転できる方法はないか」「自分が『なくてはならない存在』になる方法はないか」と迷い苦しんでいる。

そこに登場する救世主こそが、サークルクラッシャーである。
サークルクラッシャーは、彼に自身との恋愛によって救われる道を提示し、彼の人生に一発逆転の希望を与えてくれる。彼を「なくてはならない存在」だと認めようとしてくれる。しかも、彼の”コミュ力”や恋愛能力を問わず、ありのままの彼を、すぐに救ってくれる(ように思える)。
かくして、生きづらさを忘れる手段を失い、まっとうな恋愛をする能力を持たない人がサークルクラッシャーに一発逆転の望みを託す構図ができ上がる。

「自分だけの救世主」が現れた彼は舞い上がる。救世主は自分だけを救ってくれる存在なのだから、そのことを信仰のない他人に話すはずもない。まして救世主を横取りしかねない他の男達には。
そして彼は一発逆転の希望をどんどん膨れ上がらせ、すぐに頭がいっぱいになり、救世主を一刻も早く我がものにしようとする。周囲から見れば滑稽極まりない状態だが、しかし本人は真剣である。

もちろんこれは実現可能な希望ではなく、持続可能な状態でもない。自分だけを愛し救ってくれるはずの「可愛いあの子」は、実は他の男にも同じように救いの道を提示し信仰させていて、そして誰も救おうとしないのだ。「自分だけの救世主」は実在せず、自分が見た幻想にすぎなかったのだ。そのことに気付いたとき、彼らは自身の愚かさを知り、そして増幅された生きづらさに直面するのであった。

生きづらさを抱えた人々が「一発逆転」の希望を膨らませて幻想を見る。この構図は社会の中で何度も使い古されたもので、その中身が極端な行動なのかサークルクラッシャーなのかという話ではないかと思うのだが、それはまた別の話。