三本目の裏通り

見たもの、考えたことの覚え書き

「想像力の欠如」した「都合の良い生活空間とライフスタイル」について

 

口ではツベコベ言っていても、「想像力の欠如」した「都合の良い生活空間とライフスタイル」を手放したくないのが私達の本音ではないのか

皆さん、本当は「想像力の欠如」がお望みなんでしょう? - シロクマの屑籠

 

この一節に強い印象を受けた。そして、それが私の本音ではないのか、という問いに答えようと思った。以下は私の答案である。

 

 

夏休みに旅行をした。
新幹線には小さな子どもを連れた人も多かったが、車内はおおむね静かだった。話し声程度の声は聞こえてきたが、イヤホンをつけて音楽を聴いていれば、それも耳に入らない程度のものだった。
節約のために早めに新幹線を降りて在来線に乗り換えると、急に車内が騒がしくなった。子どもの声も大きかったが、主には学生のグループが何組もいたためだった。話し声は大きいし、大きな荷物を網棚や足元に置かずに通路や座席に置いていて邪魔になるし、そのほかにも気になることがあって、乗り慣れた人ばかりの通勤電車とは勝手が違うと思った。

1時間近く吊革を握り、あの荷物やあの荷物が座席に置かれていなかったら座れたのにと思いながら、ある知り合いを思い出した。彼女には、通学の電車の中で遭遇した困った人への恨みつらみをを逐一SNSに書き込むという習慣があった。3日と空けずに書き込まれていて、大変見苦しく、友人の間でも評判が悪かった。彼女本人に直接指摘する人はいなかったが、ブロックやミュートの機能を使って書き込みを見えないようにする人が多かった。私もその一人だった。

彼女の書き込みを見て、なぜこのような書き込みをするのか理解に苦しむと思っていたのだが、このとき初めて彼女の気持ちが理解できるような気がして、私も彼女を笑えないと思った。私も毎日の通学で頻繁に困った人と遭遇していたら、インターネット上*1にでも書き込まなければ気が済まないのではないか。私と彼女の違いは、人間性や心の余裕などではなく、単に困った人に遭遇したかどうかでしかないのではないかと思った。遭遇しなければ当事者にならずに済み、当事者にならずに済めば気にせずに済むのだ。

遭遇せずに触れずに済ませておけば、さしあたりその点で余計な反応をして評価を下げることはなくなる。余計にカネを出すことでトラブルを避け、快適性を手に入れることができる。旅行であれば、特急や新幹線の指定席を利用すれば、少なくとも座れない可能性はなくなる。グリーン車を利用すれば、騒がしい可能性が高い子ども連れや学生のグループと遭遇する可能性はさらに低くなるだろう。電車でなくタクシーを使えば、他の人と乗り合わせることはないので、快適な空間が約束される。*2

不満を感じずに済ませる最良の方法は、道徳的な部分を重視するならば不満を感じない自分になることかもしれないが、そうでないならば不満の原因を遠ざけることだと思う。その方法を考えて実行し、先回りして不満の芽を摘むということだ。そのためにカネが必要なら支払い、さらに言えばそのために多くのカネを稼ぐということだ。
そうすれば、私のように心が狭い人間であっても、心の狭さを問題にされることなく、不満を持たずに日常生活を送ることができる。表面的には、素晴らしい人間性を持ち心の余裕に富んだ人と同じように。

同じ電車に乗り合わせることなど、異質な他者との接触としては、まったく些少な事例であろう。そんなことくらいで何をぶつぶつ言っているのだと言われれば、返す言葉もない。しかし、そんな些少な事例であってさえ、異質な他者との接触を避けて「余計なお金を支払うような人」とだけ接触するようにすることで、大幅に快適性を高めることができるのだ。そして、己の人間性を顧みることなく、騒々しい車内でもその人間性ゆえに不満を漏らさない人と同じだけの人間性を持っているかのように、周囲の人と自分自身を誤信させることができるのだ。

そういう生活で、そういう人生で本当にいいのかい?と自分自身に問う声に、今日もミュートボタンを押している。

*1:私の場合は匿名掲示板だろうが

*2:渋滞の影響を受けることはありうるにしても