三本目の裏通り

見たもの、考えたことの覚え書き

刑務所とともにある町で見た「もうひとつの北海道開拓史」

今年の秋、刑務所に入るために北海道に行ってきた。
とはいっても、罪を犯して刑を科されたわけではない。かつて刑務所であった建物を利用した博物館を訪れたのだった。

明治時代、政府が北海道に刑務所に相当する施設を建てて囚人を収容し、北海道開拓を進めるべく道路建設などの過酷な労働を課したことは知る人ぞ知る歴史の一面だが、当時建てられた監獄建築が北海道にはいくつか残っている。網走市にある博物館網走監獄はその一つで、道東地方の代表的な観光スポットの一つになっている。煉瓦造りの重厚な門や、五つの建物が接続され見張り所が設けられた独特の形の舎房(重要文化財である)は特に有名だ。
今回訪れたのは、それとは別で、月形町にある月形樺戸博物館だ。ぜひ多くの人に訪れてほしいと思わせる施設であった。その魅力をご紹介したい。

月形樺戸博物館とその見どころ

月形樺戸博物館とは

1881年明治14年)から1919年(大正8年)までの間、この場所に樺戸集治監という施設があった。集治監とは、重い罪を犯した者や政治犯を収容し、北海道開拓に従事させるために明治政府が設置した施設である。後で述べる通り、現代の刑務所とは性質が異なる部分があるが、現代の言葉でいえば特殊な刑務所といえる。

月形樺戸博物館は、この樺戸集治監の歴史に関する資料を展示する施設である。新旧2つの建物で構成されており、そのうち一つは実際に使われていた庁舎である。残念ながら囚人たちが生活していた建物は残っておらず、実際に入ることができるのは刑務所の運営のために使われていた庁舎の建物だ。

庁舎の建築と工夫

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庁舎の建物。この建物は1886年に焼失した後に建て替えられたものである。刑務所の廃止後は1972年まで村役場・町役場として使われた。現在は博物館として集治監の概要に関する資料や当時の公文書などを展示している。北海道の厳しい気象条件の中で130年以上使われてきた木造の庁舎建築として貴重なものであり、さらに、刑務所の建物ならではの工夫を見ることができる。

正面から見ると左右対称に見える建物の左側に、少し張り出した部分がある。この部分はトイレであり、正面左側の典獄(所長)執務室につながっている。現代の庁舎建築でも、偉い人の個室の隣には専用の会議室や水回りなどの設備が備わっていることが多い。しかし、ここにはそれらとは性質の異なる、刑務所ならではの意味がある。

この部分を外から見る。正面側からはこんな感じ。

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典獄室の左隣に張り出した部分。写真右手が典獄室。

一方、裏手側から見る。

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中央やや右手に切れ目が見える。

何やら切れ目があり、蝶番のようなものがついている。 

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蝶番がついている。これは扉だったのだ。

そう、ここは非常用の脱出口だったのだ。囚人の暴動などの非常事態が生じた際、こっそりと脱出するためにつくられていた。

博物館本館の充実した展示

庁舎の裏手に2階建ての博物館本館がある。この建物は当時の建物ではない。

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月形樺戸博物館本館。手前に建てられているのは初代典獄月形潔の銅像

ここでは、1階で歴代の典獄や看守たちの仕事、集治監と地域との関係、2階で囚人に課せられた厳しい労働といった内容の資料が展示されている。展示は大変充実しており、内容はさまざまであるが、たとえば次のような内容がある。

① 典獄の仕事

典獄は初代の月形潔(のちに村の名前になった)から8代までおり、それぞれが自らの信ずるところによって集治監の運営に当たったようである。たとえば3代の大井上輝前はアメリカ留学の経験を持つクリスチャンであり、囚人に野球を奨励したり、小学校にオルガンを贈ったりしたという。また、8代の関省策は小学校に図書室を設けさせたという。

② 看守という仕事

集治監には職員が370人ほどおり(1885年の状況)、その6割ほどが看守であった。看守たちには勤務中の銃器の携帯が許されており、危険と隣り合わせの仕事であったことがわかる。1909年には道路を歩いていた非番の看守が脱走した囚人2名と遭遇し、捕まえようとして惨殺される事件も生じた(花山看守惨殺事件)。彼らもまた厳しい規律を守り、決して高くない給料で日々の厳しい仕事を遂行していたという。

③ 囚人の厳しい労働

当初は集治監周辺での農業や味噌・醤油の製造などに従事していた囚人たちは、政府によって北海道開拓のための道路建設の計画が立てられると、安価な労働力として使いつぶされるようになった。当時の政府の考え方は、「囚人に懲罰として過酷な労働をさせれば工事の費用が安く上がり、囚人が死ねば監獄の費用が安く上がるので結構なことである」というものだった。

囚人が築いた月形の町、そして北海道開拓の基盤

囚人が築いた北海道開拓の基盤

1886年北海道庁長官から道路建設の命令が下り、樺戸集治監の囚人たちは、現在の三笠市から旭川市への上川道路(現在の国道12号線)の開削に従事することとなった。1889年に完成した後は、旭川から網走への網走道路の開削にも従事した。

いずれの工事も人力に頼る重労働であったうえ、食事や衛生状態は十分でなく、害虫や獣にも苦しめられ、極めて過酷なものになった。怪我や病気によって多くの囚人が亡くなった。

こうした過酷な労働によって道路が開かれたことで、上川地方や道東方面の開拓が始まった。北海道の開拓は囚人の過酷な労働によって進んだのであった。展示パネルの以下の一節は、読む者に強く訴えかけるものがあった。

ここに来たら二度と帰れないと
恐れられた北の監獄。

開拓を先駆ける基幹工事を行ったのは
ここから逃れられない境遇の囚人たち。
極寒の原始林を拓く工事は 
罪を犯した者に課せられたとはいえ 
あまりに過酷で非人道的であった。
囚人たちは多くの犠牲を払って 
この難工事を完遂した。

一直線の道路を通り過ぎるとき
一面の田畑を眺めるとき
囚人たちにも思いを馳せてほしい。
あまり知られていない
だからこそ伝えたい
もうひとつの北海道開拓史がここにある。

囚人たちが築いた月形の町

この場所に集治監があったのは30年足らずの間であった。囚人と職員たちは、この町にたくさんの足跡を残していった。

集治監が開かれたとき、赤い服を着せられた囚人と職員は、まず周辺の開墾にとりかかった。囚人たちは水道や灌漑の工事にも従事し、村の生活や産業に必要なインフラを整備した。また、本州からやってきた看守の中には退官後も村に残った人がいた。彼らは集治監での経験を活かして農業やまちづくりに大きく貢献した。

月形の町には、今も形を変えて刑務所が存在している。
時代は大きく下って1983年、月形刑務所が設置された。東京・中野の刑務所が閉鎖される際、一般的には敬遠される刑務所を、月形の町では積極的に誘致したのだという。
現代の刑務所では、囚人が過酷な道路工事に動員されるようなことはない。月形刑務所では、広大な敷地を生かした農作業や、木材資源を生かした家具の生産など、この地域の資源を生かした刑務作業が刑の一環として行われている。
また、非行をした少年を教育する少年院である月形学園も所在する(こちらは1973年設置)。

樺戸集治監とともに生まれ、初代典獄の名を村の名とした月形の町。
博物館のシアターで流れている、月形の町の成り立ちに関する映像はこう締めくくられていた。

月形は、朝日や夕日と同じ赤い服を着た人たちが築いた。

赤い服を着た囚人たちが築いた町は、今も罪を犯した人の矯正の場とともに生き続けている。

 

現地情報

施設の基本情報

施設の名称:月形樺戸博物館
所在地:北海道樺戸郡月形町1219番地
ウェブページ:http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/5516.htm
開館日:4月から11月のみ開館。12月から3月までは閉館。開館期間中無休。

開館時間:9時30分から17時まで(入館16時30分まで)

公共交通機関でのアクセス
(鉄道)JR石狩当別駅から徒歩6分(500m)。札幌駅から約80分、一日7~8便。2020年5月7日廃止・バス転換予定。
(路線バス)北海道中央バス月形役場停留所すぐ。岩見沢ターミナル(JR岩見沢駅すぐ)から約40分、一日8~9便。
バスの時刻はhttps://www.chuo-bus.co.jp/city_route/course/iwamizawa/で。ヤフー乗換案内アプリ対応。

周辺の観光施設など

月形温泉ホテル(博物館から約1.2km、徒歩約15分)
町営の温泉・宿泊施設。宿泊施設の内湯というよりは、地方によくある公営の温浴施設と同様に、地元の人が気軽に入りに来る施設という色が強いようだ。10時から22時(11月~3月は21時)まで入浴できる。博物館の半券提示で割引あり。
https://tsukigataonsen-hotel.com/hotspring.html