三本目の裏通り

見たもの、考えたことの覚え書き

成長に必死とは評価されなさそうな若者から見た「成長に必死な若者」たち

3本のブログ記事を読んだ。

delete-all.hatenablog.com

p-shirokuma.hatenadiary.com

odmishien-zakki.hatenablog.com

 

「ああ、そうだよなあ」と思いながら読み進めて、概ねの納得と、少しの共感と、また少しの違和感を抱いた。

「成長に必死な若者」とは評価されなさそうな若者として、我が身と周囲を眺めつつ思ったことを書いてみたい。

 

所属する組織の「成長圧」が「成長へのスタンス」を規定する

世の中には色々な仕事があり、色々な組織があるらしい。

就職してから出会った人はともかく、学生時代の友人たちは、色々な仕事や組織に散らばっている。

日本経済を牽引する大企業の本社で働く人もいるし、工場で働く人もいるし、地元のお店で働く人もいるし、教員もいるし、保育士もいる。役所で働く人もいるし、代々続く家族経営の会社で働く人もいる。

彼ら彼女らを見ていると、「成長」に必死な度合いは全然違うように見える。セミナーや交流会に出まくってそのことをSNSで発信したり、インフルエンサーと呼ばれるような人とリプライを交わしていたりする人もいる。仕事に関係する本をたくさん読んでいる人もいる。資格試験や検定試験に向けて必死で勉強している人もいる。長時間労働の中で必死で食らいつくように仕事をして、少しでも仕事を覚えてできることを増やそうとしている人もいる。反面、そういうことをほとんど感じさせない人もいる。

これは個人差による部分もあるのだろうが、失礼ながら学生の頃はそんなに真面目ではなかったよねという人も必死で「成長」を追いかけていたりして、組織が人を変えている部分も大きいのではないかと思う。言い換えれば、組織によって異なる成長圧が、「成長」へのスタンスを規定しているのではないかと思う。

 

「成長に必死なスタイル」をとらないことを可能にするもの

我が身を振り返れば、私はそんなに成長に必死な部類ではない。というか、かなりのんびりしている部類だろうと思う。

読む本は仕事と関係のないものばかりだし、日々のニュースは追いかけているが、それは趣味の一つである選挙予測に役立てるためである。あえて何か挙げるとすれば、会社で回ってくる専門誌を眺めたり、年に数回思い出したかのように同業他社との勉強会に出たりするくらいだ。とてもじゃないが「私は努力しています」と胸を張って言える水準ではない。

そのうえ、私は基本的に「努力は人に見せつけるものではない」という価値観を信じていて、雑談でもSNSでもその手の話はしない。利用するSNSTwitterだけで、専ら日々のたわいもない出来事や趣味の話をするために使っている。趣味の世界の偉大な先人はフォローさせていただいているが、いわゆるインフルエンサーはフォローしていない。Facebookはやらない。意識して「意識高い系」のコンテンツを遠ざけている節がある。 

これは私の怠惰な性格によるものなのだが、それが(少なくとも表立っては)特に問題にされず、こういうスタンスを取り続けられるのは何故だろう、と思う。

組織が成長へのスタンスを規定するという視点で言えば、私が所属する組織は、成長圧はそれほど高くない部類だと評価されそうだ。比較的ゆったりとした風土がある。これは重要な理由の一つだろう。

 

それでも「成長しようとする姿」を見せるべき時もある

ただ、かくも怠惰な私も、時と場合によっては「成長しようという意識がある」という意思表示をしなければならない。給料や評価はある程度成果主義で決まるが、評価項目の一つには自己啓発への取り組みが必ず入っている。上司から「君、自己啓発のために何やってるの」と聞かれたら、「同業他社との勉強会に定期的に出席したり、専門誌や日経新聞の記事を読んで社会や経済や同業他社の動きを分析したりしています」と答えなければならない。毎年提出する調書にもそう書かなければならない。まあ、嘘ではない。動機や熱心さはともかく、していることは事実である。他の人と比べれば「しょぼいなこいつ」と思われるのかもしれないが、少なくともそれをはっきり言われることはない(今のところは)。

今後、成果主義はさらに広がるだろうし、自己啓発圧は高まることこそあれ低下することはなさそうだ。こういう「見せ方」が求められる場面は増えていくのだろうし、見せる内容もさらに高度なものが求められるようになるかもしれない。いかに怠惰な私としても、職を失うのは嫌なので、そうなれば今のスタンスを維持することは困難になりそうだ。

シロクマ先生は

いまどきの成長志向の何割かは制度や慣習によってつくられた産物

と書かれたけれども、大学入試や就職活動、転職活動などを含めて、制度や慣習はこれからさらに成長志向を強めていくことになりそうだ。

 

世の中が求める「成長に必死な若者」

日経新聞を読んでいると、事あるごとに「このままでは世の中の仕事の多くは機械に代替される。労働者はスキルアップに努めなければならない。労働者のスキルアップと労働流動性の向上が日本が生き残るために必須だ」という論調の記事に遭遇する。おそらく、これが企業の経営者や管理職の多くが共有する考え方なのだろう。

周囲の「成長に必死な人たち」を見ていても、ある人は日進月歩のAI技術で自社の優位性が失われるという危機感を語り、ある人は出産後は離職して子育てに専念したいので復職に有利な資格が必要だと言い、またある人は人手不足で求められる仕事の幅が拡大しているのでついていくのに大変だと言う。どれも世の中全体の特徴を反映したことであるように見える。

もちろん、いわゆる内発的動機づけで動いている人もいる。世の中がどうあろうと、目の前の仕事にやりがいを見出し、あるべき社会の姿や実現させたい夢に向かって成長を図るのだという人は必ずいるし、それは尊いことだと思う。そういう人は輝いて見える。

ただ、

blog.tinect.jp

の記事で取り上げられていたように、今の世の中は、「普通の人」が「普通の人であり続けながら」働き、一定の収入を得られるというあり方ではなくなってきている。この流れが変わらない限り、「成長に必死な若者」は増え続け、また、年齢層を広げていくのではないかと思う。

 

「他人のことばかりあれこれ言わずにお前自身が成長しろよ」という声が自分自身の中から聞こえてきた気がするが、それが己のあまりの怠惰さにしびれを切らせたためなのか、他人の「成長物語」を見聞きして焦ったためなのかは、よくわからない。