三本目の裏通り

見たもの、考えたことの覚え書き

アニメ映画「君の膵臓をたべたい」感想。実写映画よりも原作が好きな人に観てほしい映画。

 アニメ映画「君の膵臓をたべたい」を観てきた。 

この物語は、2015年刊行の原作小説をもとに、2017年に実写映画化され、そして今年、このアニメ映画が公開された。
実写映画では、プロットが改変され、原作にはないシーンや設定が多く加わり、多くのシーンがカットされた。私は大きな違和感を覚えたが、肯定的に評価する声も多く、賛否が分かれている。
しかし、このアニメ映画は、原作のプロットを踏襲しており、時間の制約はあるものの原作の重要なシーンを収録している。何より、主人公とヒロインの人柄が原作に近いタッチで描かれている。

だから私は実写映画よりもアニメ映画の方が好き……というのが個人的な結論なのだが、せっかくなので、その理由を記録しておく。
以下、このアニメ映画の魅力を、大きく4つ、実写映画と対比しつつ述べていきたい。

【注:この先、ネタバレを含みます。】

目次

 

この映画、どこがいいの?

1.春樹の人柄と魅力がわかること

この物語の主人公である春樹は、小学生の頃からずっと友達がおらず、誰にも興味を持たず、自分に興味を持つ人などいないと考えている。好きなことは小説を読むこと。人間関係を構築しながら現実の世界にいるよりも、一人で小説の世界にいるほうが心地よいと考えている。
そんな彼は、原作者の言葉を借りれば「本当にどうしようもない男の子」である。*1

では、春樹は「どうしようもない」だけの人間か。彼がしてきた、彼の人柄を形成してきた選択は、間違ったものだったのか。違う。この物語のヒロイン・桜良に言わせれば、そうではない。
春樹はずっと小説の世界にいた人である。だから彼は同世代との人間関係そのものに慣れていないし、自己完結的だし、理屈っぽいし、良くも悪くも冷静だし、言語感覚が磨かれている。自身の存立基盤を他者との関係ではなく自分自身の世界観や経験としていて、それゆえに他人に流されず自分をしっかり持っている(ように見える)。

そんな春樹の「どうしようもなさ」と魅力は、原作で会話とモノローグを交えてしっかりと描写されているのに対して、実写映画では(おそらく意図的に)かなりマイルドに描かれ、薄められている。実写映画での春樹は、小説の世界ではなく現実の世界でも十分普通に生きていけそうである。
しかし、それでは彼の魅力が伝わらない。このアニメ映画では、そういう歯がゆさが解消されている。

 

2.桜良が得たものがわかること

 この物語は、要約すれば「桜良は人生の最後に春樹と出会い、人生の集大成となるような特別な時間と特別な人間関係を得ることができた。春樹は桜良から多くのものを学んで新しい生き方を得ることができた」という筋書きである。
物語の終盤に二人がともにたどり着いた結論、「桜良は春樹と出会うために、春樹は桜良と出会うために、選択して生きてきた」が、そのことを示している。

桜良が得たもののうち、「特別な時間」は、物語の中で「真実と日常」という言葉で表されている。
彼女は、医師は真実を告げるだけ、両親は日常を取り繕うのに必死になっている、と述べた上で『たった一人、春樹が「真実と日常」をくれる人なんじゃないかな。春樹だけは真実を知りながら私と日常をやってくれるから、遊んでいて楽しい』と語る。

 

「真実を知りながら日常をやる」というのは、常識的に考えると、難しいことだ。
桜良と良好な関係を築いてきたと思われる両親でさえも、それには失敗し「日常を取り繕うのに必死になっている」ということが、それを表している。

となれば、次善の策は、真実を知らせずに、「重病に侵された女の子」ではなく「普通の女の子」として日常生活を過ごすこと、ということになる。*2

高校生という時期は、多くの人が「今までの人生で今が一番楽しい。今の日常が好きで、ずっと続いてほしい」と感じる時期だろうと思う。桜良もまた、中学生までの生活以上に、高校生活を楽しみたいと思っていただろう。重病に侵された彼女は、その運命を受け入れた上で、高校生活*3をそれまでの人生で最も楽しい時期にしようと決意していたのではないか。*4

 

そんな諦めを含んだ決意は、思いがけず「真実と日常」をくれた春樹によって修正されることになる。

「真実を知りながら日常をやる」というのは、桜良にとって、とても楽しいことだったのだろう。
普段の会話ひとつとってもそうだ。桜良と春樹は、病気さえもネタにしつつ、軽快で時にシニカルな会話のキャッチボールを展開する。そのときの桜良はとても楽しそうだ。
桜良はどんどん言葉を投げ込んでいくし、春樹は軽快に、同情的になることなく冷静に、言葉を返していく。 

人並みに人間関係の経験を積み、人間関係のセオリーを身につけた「普通の」高校生であれば、こうはいかない。ふとした瞬間に、湿っぽくなり、同情がにじみ出てしまう。過度に共感を示してしまう。そうして、「日常を取り繕うのに必死」になってしまうだろう。そうならないためには、人間関係の経験自体が乏しく、セオリーを身につけていない方が、かえってうまくいく。

ここで春樹の特徴が生きてくる。
春樹はずっと小説の世界にいた人である。だから彼は同世代との人間関係そのものに慣れていないし、自己完結的だし、理屈っぽいし、良くも悪くも冷静だし、言語感覚が磨かれている。だから、真実を知った上で日常をやっていくことができたのだ。 

このことをしっかりと描写するからこそ、桜良が春樹によって得た「真実と日常」が、鮮やかに浮かび上がる。「真実と日常」を鮮やかに浮かび上がらせるためには、春樹が「どうしようもない男の子」として描かれなければならないのだ。
原作ではそれが描かれている。実写映画ではそれが回避されている。そしてこのアニメ映画では、それが描かれている。

 

そしてもう一つ。桜良が得たもの二つのうち一つ、「特別な人間関係」である。
これは私の見立てであるが、彼女には、病気と関係なく「私の魅力に動じない魅力的な異性と仲良くなりたい」という願望があったのではないか。彼女はきっと、仲良くなると彼女の魅力に惹かれ過ぎて自分を忘れてしまう男子にうんざりしてきた。*5
だからこそ、自身の存立基盤を他者との関係ではなく自分自身としていて、それゆえに他人を必要とせず、他人に流されず自分をしっかり持っている(ように見える)春樹に惹きつけられたのではないか。 

他人を必要としてこなかった、そしてそれゆえに他人と距離を縮めることを知らず、恋人になろうとすることもなかった春樹は、桜良が望む距離感をそのまま受け入れ、「真実と日常」を壊さなかった。それが、彼女が望んで、そして得たものだったのだと思う。

きっとこれまで、恋愛感情によってふらつくことなく「仲良し」でいられる魅力的な異性が、そして病気を知っても動じずに日常生活を共にしてくれる親しい人がいなかった桜良が、ようやく両方を兼ね揃えた人物に、春樹に出会ったのだ。

 

3.春樹の成長がわかること

原作でもアニメ映画でも、春樹は桜良から多くを学んだと語り、「君の爪の垢を煎じて飲みたい」という意味のことを語る。*6彼女に引きずり回されながら、彼は成長していく。 

春樹の成長が見えるシーンはいくつもある。その中でも重要なものとして、桜良が入院したあとの花火の日、春樹が心配という感情を桜良にぶつけるシーンがある。ここまで理屈っぽさや冷静さを失わず、言い換えれば素直になってこなかった春樹が、彼女を必要としていることをはっきりと口にし、自覚する。彼の変化を、彼自身が自覚する。そして、彼女はとても喜ぶ。
春樹は、当たり前のように友人同士を必要とし合う「普通の子」ではなく、ここまで自己完結的な生き方を選び、他人を必要としてこなかった。だから桜良は自分のことを必要としてくれたことをこんなにも喜んだのだろう。
春樹の「どうしようもなさ」がしっかり描かれているからこそ、このシーンは輝くし、桜良の気持ちが理解できる。 

実写映画にはその描写が足りなかった。実写映画では、春樹は「どうしようもない子」ではない。スタートラインが「普通の子」だから、ラストに至るまでに「普通の子」に近づいていくという成長が見えにくい。そして、桜良が惹かれた、どうしようもなさの裏返しとしての魅力も見えにくい。上に挙げたシーンに近いシーンは実写映画にも存在するが、唐突感があり、いまひとつ伝わるものがなかった。アニメ映画ではその弱点がなくなっていた。

 

4.恭子に救いが用意されていること

この物語では、桜良の「親友」である恭子が登場する。桜良と最も親しい友人だったが、「日常」を崩したくないという桜良の意思によって、彼女の生前に病気のことを明かされることはなかった。ここまでは原作も実写映画もアニメ映画も同じだ。

原作では、桜良の死後に彼女の家を訪れ、「共病文庫」を受け取った春樹は、その数日後に恭子を呼び出してそれを読ませる。そこには恭子へのメッセージが含まれており、それを読んだ彼女は号泣するとともに、桜良の病気のことを告げなかった春樹に激怒する。そして、その1年後、春樹と恭子は「友達」といえる関係になり、そのことを桜良の墓前に報告する。*7

一方、実写映画では、恭子へのメッセージは「共病文庫」とは別に、図書室の本に隠された遺書に記されており、ガム君と恭子の結婚式の当日にそれを発見した春樹が式場の控室にやってきたことで、恭子は12年越しにそれを読むことになる。そして、春樹はここに至って初めて恭子に「僕と友達になってください」と伝える。

このアニメ映画では、原作とほぼ同じ展開が採用されている。 恭子は1年かけて気持ちに折り合いをつけ、1年後には春樹と友達になる。*8

私はこれでよかったと思う。実写映画のように12年間ずっと真実を知らないままでは、そしてそれを桜良を知る旧友との結婚式の当日に突然知らされるのでは、恭子があまりに救われない。

 

で、結局どういう映画なの?

 長々と書いてきたが、このアニメ映画のキモは「春樹の人柄と特徴をしっかりと描いた作品である」という点だと思う。
私は桜良よりは春樹に近い人間である。だからだろうか、「なぜ桜良は春樹を必要としたのか」がとても気になる。実写映画では、春樹の人柄がマイルドに描かれているがゆえに、その疑問が最後まで解消することはなかった。*9
だが、このアニメ映画では、春樹の人柄をしっかりと描いたことから、その疑問にある程度答えが出されているように思う。私が見た答えは、この記事の通りである。 

アニメ映画をまだ観ていない方がいたら、公開期間が終わる前に、ぜひ一度観てほしい。とりわけ、原作は好きだが実写映画はちょっと…という人には、ぜひ一度観てみてほしい。決して分の悪い賭けにはならない、と思う。

 

*1:原作者と監督へのインタビューでの発言。https://s.akiba-souken.com/article/35848/を参照。

*2:「普通の女の子」として友人に囲まれて日常生活を楽しむことができるのが、桜良という人物である。

*3:「残された人生」と同義

*4:「共病文庫」にも『私は、皆と普通に生活していっぱい遊んでいっぱい笑いたかったの』と記されている。

*5:桜良はもともと明るく社交的で、人間関係の構築が得意で、そして「クラスで3番目くらいに」可愛い。それゆえに、ただでさえ男子に好かれやすいし、誰かと付き合ってみても、彼女の「好き」よりも恋人の「好き」の方が上回りがちになってしまい、しつこく追いかけられてしまうのではないか。まして、重病を患って余命を宣告されるという特別な属性をもち、そしてそれを周囲には明かしていないのに自分には明かしてくれた―となれば、彼女に淡々と接し、特別な感情を見せないことは、それまで以上に難しくなる。

*6:そう、物語のタイトルにもなった、あの言葉である。

*7:原作では、春樹が恭子と「友達」になるにあたって、「友達」の基準を桜良との関係と同等のものとしたことが記されている。福岡まで日帰り旅行をしたとも。ここまでいくと、友達の中でも相当つながりが強い部類になりそうである。微笑ましい。

*8:余談だが、桜良の墓前に報告するシーンでは、原作の台詞の一部がカットされており、春樹と恭子が大学受験後に交際を始めるという解釈ができなくもない。私はその解釈を推したい(願望)。桜良を春樹の初恋の相手とするよりは、親友でもなく恋人でもない、名前をつけがたい特別な関係で、多くを学んだ相手とした方がいい。春樹には、そう折り合いをつける意味でも、恭子を初めての「恋人」にしていてほしい。

*9:しつこいようだが、この改変ゆえに物語にリアリティが生まれたという声もある。